祖母と私5「梅干し」
梅がスーパーに並ぶ時期になると、祖母と一緒に梅干しを作っていたのを思い出す。
我が家の梅干し作りはかなりの大仕事だった。
なんせ一番多い頃は13kgもの梅を漬けていたのだから。
母はこういった作業が大嫌いなので、祖母が元気な内にたくさん漬けておいてほしいと頼んだためだったのだが、おかげ様で、祖母が亡くなって7年ほど経つが、まだ一緒に作った梅干しを食べている。
梅干しを作る話に戻ろう。
13kgの梅と言っても、漬ける手順は何も変わらない。
買った梅をまずは部屋に広げて追熟させる。
祖母が寝室にしている和室に新聞紙を広げて重ならないように梅を広げていたのだが、ベッドへの通り道を残して梅で埋め尽くされた様子は今思えば結構シュールだ。
この作業をしたことがある方はお分かりかと思うが、梅は熟してくると桃に似た甘い香りがするようになる。
なので、追熟が進んできて香りが立ってくると、用もないのに祖母の部屋を覗いて香りを楽しんでいた。
梅が熟したら塩漬けにする。
まずは水洗いし、カビないように水気をしっかりとふき取りながら、ヘタを爪楊枝で取る。
これを梅13kg分…Lサイズの梅を使っていたので、数は300~400個程度だったと思うが、なかなか大変な作業だった。
我が家は基本的には梅のみを漬けていて、赤紫蘇は漬けていなかったが、私が子供の頃は赤紫蘇も一緒に漬けていた時期があり、梅に加えて、赤紫蘇も洗っていったん水分を取り、塩でもんで絞って…という作業をした記憶がある。
大阪に住んでいた祖母の姉も泊りがけで遊びにくるついでに手伝ってくれて、一家の女手総出(と言っても4人だが)の大仕事だった。
塩漬けの作業が終わると、干すまでは祖母がカビが生えたりしていないか様子を見るだけなので、平穏だ。
ただ、一時期、塩分濃度をギリギリまで下げて(最終8%くらいまで下げていた)漬けていた頃は、毎日気を付けていないとカビが広がってしまうようで、祖母は大変だったようだ。
カビが頻発してしまった年以降は、塩分は15%前後で漬けていたと思う。
標準は20%程度なので少しだけ減塩。
ちなみに、塩分濃度を下げるとかなり酸っぱい梅干しが出来上がる。
実は、私は作った梅干しをあまり食べないのだが、この酸っぱさが少し苦手だから。
梅の風味は大好きなのだけれど。
塩漬けした梅を干す作業、これがまた一苦労だった。
土用干しと言って、7月20日前後の土用の丑の日頃、梅雨明けして晴れ間が続く3日間で天日干し、そのあとさらに3日間、夜干しする。
太陽が山端から顔を出す頃に、庭に干すための台と竹の網かごを用意して、梅を一粒一粒、わずかに隙間を空けて並べていく。
昼頃にはまた一粒一粒、ひっくり返す。全体をまんべんなく太陽の光に当てるためだ。
実は早起きがとても苦手な私は、朝はなかなか起きられず、祖母が梅を並べ始めた頃に起きて、慌てて並べるのを手伝ったものだった。
ひっくり返す作業は真っ昼間の暑い時間での作業なので、祖母と二人、麦わら帽子を被って無心に作業していた。
学生の頃は朝も昼も手伝えたが、社会人になってからはそうもいかず、祖母がほぼ一人で作業してくれていた。(母は昼の作業だけは手伝っていたようだが)
天日干しが終わると夜干し。
これは夜露にあてて梅の皮を柔らかくする工程だそうなのだが、夜、寝ている間に干しっぱなしにするので、雨が降らないことを祈って寝なければならなかった。
(祖母曰く、夜露にあてるには軒先ではなく、庭木の近くに置いておかなくては、ということだったので、屋根のある場所ではなくあえて庭の真ん中に干していたので)
幸い、というべきか、祖母は庭に面した和室を寝室にしていて、夏場は風を通すために網戸にして寝ていたので、雨が降ると取り込んでくれていたようだ。
こうして干していると時々、つぶれ梅ができた。
よく熟した梅を漬けていると、干すときに出し入れする衝撃で皮が破れて中身の柔らかい部分が露出してしまう。これをつぶれ梅と祖母は呼んでいて、そのまま他の梅干しと一緒にしてしまうと他の梅干しまでダメになると言って、それだけは取り分けて食卓に出される。
出来上がった梅干しとは違って、塩分が抜けていないのでかなり塩辛いが、梅そのものの酸味と甘みが少し残っていて、これはこれで美味しいのでちょっと楽しみだったのを覚えている。
苦労して干し終えれば、あとは清潔な瓶に詰めて置いておくだけ。
(梅酢は別にして、料理に使ったりしていた)
毎年大量に漬けていたので、だいたい食べ始めるのは数年後。
その方が酸味もまろやかになり、より美味しいのだ。
こうして作った梅干しは、あと2年分は残っている。
全部食べ切ってしまったら、また漬けてみようか。
祖母のことを思い出しながら。
祖母と私4 「テレビゲーム」
祖母はゲーマーだった。
と言っても過言ではないほど、始めると何時間でもやるほど好きなゲームがあった。
ファミコンソフトの
「ドクターマリオ」
「上海Ⅱ」
この2タイトルである。
祖母の家には、なぜかファミコンだけあった。
今思えば、誰のものなのか判然としない。
(世代的に祖母の息子、つまり私の叔父のものであってもおかしくないのだが、叔父はほとんどゲームをしないようなのだ)
私が小学生から中学生の頃は、祖母の家に遊びに行くとたまに「ドラクエⅣ」をやっていたものだった。
当時はすでにスーパーファミコンも発売されていて、私も持っていたが、家にはないものがやりたいのが子供の常なのだろう。
ただ、祖母は「テレビゲーム」自体が好きなのではなく、前述した2タイトルのみがひたすら好きだったので、おそらく30年近く、同じソフトをプレイし続けていた。
ちなみに、本体は2台使いつぶしている。
コントローラーが持たないのだ。
初代は誰のものかは不明だが、そのあとの2代目は祖母の妹の息子が譲ってくれたものだったと思う。
(この人はガチのゲーマーだった。実を言うと、私がドラクエを中心としたRPGが好きなのはこの人の影響だし、祖母がゲームをやるようになったのも、この人がきっかけだろうと思っている)
この次の3代目は私が購入した。
グレーの本体のもので、今調べるとオリジナルモデルとは画像出力方式が違う後継機だった。
この本体はコントローラーの交換が簡単にできるので、私が替えを購入したような記憶がうっすらとある。
こうして、祖母の部屋のテレビには、常にファミコンが接続されており、眠れない夜などは明け方まで何時間も遊んでいたのだった。
一人でやるときにはもっぱら「上海Ⅱ」をやっていたようだ。
「ドクターマリオ」は対戦するのが面白いらしく、母とはもちろん、祖母の妹が遊びにくるとやはり何時間でもやっていたものだった。
「ドクマリ」は指の運動になる、と笑って何時間でも飽きずにプレイしていた祖母は、私の中では立派な「ゲーマー」なのである。
祖母と私3「爪切り」
先日、祖母とのお風呂について書いた。
お風呂と概ねセットになっていた作業がある。
爪切りである。
お風呂で少し柔らかくなった爪を切るのも私の役目だった。
祖母の爪はうらやましいくらい、分厚くて丈夫だった。
それは手も、足も同様に。
(私は母に似て、薄い爪で、すぐに二枚爪になるし、勝手に裂けて深爪になるし、今も難儀している)
加齢のせいだろうが、縦すじは入っていたが、分厚いためそのままにしておくと伸びるばかりなので、爪切りで切らなければならない。
しかし、ただ短くすればいいというものでもない。
というのも、祖母はリウマチの薬を飲んでいたので、よくあるプラスチックの型押し容器にアルミフィルムで蓋がされた薬包から薬を何粒も取り出す必要があるのだが、手の関節が変形していて細かな作業ができないため、薬の入っているプラスチック面を押し上げて錠剤を出す、という一般的な動作が難しい。
そのため、薬を取り出す際は手の爪でアルミフィルムを破って錠剤をむき出しにしてから、手のひらへ落とす、というやり方で薬を取り出していたのだ。
つまり、手の指の爪、特に右手の親指の爪はある程度残しておかなければならず、かつ、すこしだけ中央を尖らしておく必要があった。
(フィルムを破りやすいように)
幸いなことに、私はそこまで不器用ではなかったので、祖母のこの要望には容易に応えることができた。
(実は、母は大変不器用で、人の手足の爪なんて絶対に切れない、と主張し、それは祖母と私も認めるところではあった)
あまり長く残しても、またすぐに切らなければならないので、短くはしつつも、中央を尖らし、ただ、あまり鋭いと危ないので、ほんの少しだけ先端をカットするのがコツだ。
足も同様で、あまり短くして巻き爪になっても大変なので、しっかりとスクエアカットに整える。
時には、マニキュアを施すこともあった。
夏場は特に、祖母はサンダルをミュールを好んだし、私が当時使っていた、アナスイのラメ入りのネイルポリッシュを塗ってあげると喜んでいた。
祖母は結構酷い外反母趾だったと思うのだけど、すっかり変形してしまって、かえって痛くないのだと言い、締め付けのない華奢なサンダルやミュール(もちろんヒールはあまり高くないもの)を履いていたのをよく覚えている。
元気な頃は、一緒に買い物にも行っていたので、たまにお揃いの靴や服を買うこともあった。
私が試着していると、自分も欲しくなるようで、同じものや、色違い、そうでなくても、同じブランドから自分の好きな形のものを選んで購入していた。
よく一緒に買い物をしていた頃の私は20代で、祖母は70代だったと思うが、祖母が「私もこれが欲しい」と一緒に靴や服を試着していると(しかも意外と似合うのだ)店員さんに、素敵なおばあ様ですね、と言われるのがちょっと誇らしかった。
その流れで、お会計も一緒にしてくれるのは本当に有難かったが…今の私なら、たとえ買ってくれると言っても、母と一緒に洋服の買い物に行こうとは思わないので、やはり、おしゃれで可愛らしい祖母と一緒の買い物が楽しかったのだな、と思う。
祖母と私2 「お風呂」
祖母との生活は、お風呂の時間が一番長かったように思う。
それは長風呂だったという意味ではなく、ほぼ毎回、一緒にお風呂に入っていたからだ。
祖母は70歳くらいから関節リウマチを患っていて、手、手首、膝の関節が腫れて痛むことが多かった。
もちろん薬は飲んでいたが、症状には波があり、酷い時には1日寝ていることもあった。
関節リウマチは、若い時に発症すると進行が早く、場合によっては寝たきりになることもあるらしい。
祖母は不幸中の幸い、発症が70歳を過ぎていたこともあり、また、色々な薬を試して、ある程度効果のある薬に辿り着いたことも良かったのか、最後までリウマチのせいで寝たきりになることはなかった。
ただ、発症当初から手の関節の変形が酷く、思うように力が入らなかったために、お風呂で自分の頭や背中を洗うことができない、また、湯舟に浸かるときにも、しっかりと身体が支えられないことが問題であった。
そのため、一緒にお風呂に入って頭や背中を洗い、湯舟に浸かるのを誰かが手伝う必要があったので、それが私の役目となったのだ。
1回、40分~1時間程度だったろうか。
今思えば、毎日のようによくやっていたなと思うが、不思議と「面倒だな」と思ったような記憶はない。
そもそも、私がもっと小さな頃、まだ一緒に暮らしていない時も、遊びに行けば一緒にお風呂に入っていたし(祖母の家のお風呂は一部増築しており、広かった)その当時も、頭を洗ってあげていたことは覚えている。
そう、我が家では一緒にお風呂に入ると、頭と背中は洗ってあげるのだ、という不文律があったように思う。
子供の頃、祖母の家でのお風呂は祖母と母と私で入っていたが、祖母のも母のも洗ってあげていた記憶がある。
子供は普段しないことが楽しいもので、人の頭を洗うことは、遊びの延長だったようにも思うし、喜んでもらえるが嬉しい、という気持ちもあったように思う。
そういうわけで、さほど抵抗なく、祖母とお風呂に入る習慣は私の生活に組み込まれていった。
ただ一緒に入る、というと仲が良い家族という感じがするが(実際仲は良かったが)実は、私が先に入り、湯舟に浸かって自分の頭を洗ったところで、祖母を呼ぶ、という手順が決まっていた。
片方が湯舟につかっている間に、片方が洗い場を使い、その後、洗髪してあげて…と、スムーズに入浴するための、マニュアルみたいなものだ。
気が向けば身体を洗いながら話もするが、私も祖母もそんなに口数の多い方ではないので、ただ黙々と入浴していた気がする。
でも、それが生活の一部で、気まずいこともないし、穏やかな時間だった。
だからこそ、ずっと一緒に入れていたのだろうと今では思う。
祖母との、なんでもない日常、でも大切な思い出。
祖母と私1「覚えていたいから」
私は15歳くらいから十数年、母方の祖父母の家で、母も含めて4人で暮らしていた。
父母が離婚し、母は私を連れて実家に戻ったからだ。
実家に戻る、というと大層な感じがするが、元々私たちは母の実家の隣町に住んでいて、頻繁に遊びに行っていたので、当時の感覚としてはずっと祖父母の家にいられるのだ、という程度だったように思う。
祖父は私が社会人2年目くらいの頃に亡くなり、その後は女ばかり3人の暮らしになったが、それが9年目に達する頃、祖母も亡くなった。
私は小さな頃からおばあちゃん子であったと思うが、一緒に暮らすようになってからも、基本的には祖母に寄り添って生活していた。
祖母はガンで胃を3分の2ほど摘出しており、小食ではあったが、少しの食事やおやつを日に何回も食べていたため、私が家にいる日は、チャイを入れて一緒におやつを食べるのが習慣だった。
祖母は結構「はいから」な人で、コーヒーや紅茶、洋菓子が好きだったので、自分でもそういうものを用意していたが、祖母自身では入れられないスパイスチャイなどすこし凝ったものを私が用意すると嬉しそうだった。
また、関節リウマチを患っており、特に手の関節が変形していたのと、腕があまり上がらなくなっていたので、基本的にお風呂は一緒に入って、頭を洗ってあげたり、湯舟に浸かるのを手伝ったりしていた。
今思い返すと、私ってできた孫だったかもしれない、と思うと同時に、祖母に寄り添うことで、私も精神的な安定を得ていたような気がする。
誰かの役にたっている、という実感。
祖母もことあるごとにお礼を言ってくれたし、時々、親戚や近所の人と話しているところに居合わせると「カナメちゃんがよくしてくれて…」と感謝と共に孫自慢をしているのを聞くこともあった。
やっぱり、そういうことがあると嬉しかったし、高校を卒業するまでは、祖母が毎日朝食を用意してくれていたので、その恩返しという意味も込めて、祖母にしてあげられることは、できるだけしよう、と思っていた。
今、母と二人、私が買った中古マンションに暮らしていて、それなりに幸せだが、祖母と暮らしていたあの頃が無性に懐かしく思うのは、自分が、何の役にも立っていないと思えてしまうからだろうか。
母とも、祖母とのような関係性が築くことができればいいのに、と思わないでもないが、母と祖母がそうだったように、母子というのは関係が近すぎて、逆に難しいのかもしれない。
母と祖母との思い出話になることがあるが、たまに、母の祖母に対する複雑な想いが垣間見えることがあり、そういう時、私は悲しくなる。
良いことも、悪いことも含めての思い出だと頭ではわかるけれども、聞きたくないと思ってしまう。
なので、あまり祖母の話は母とはしない。
祖母と暮らした記憶を持つのはもう私と母だけなので、そうすると誰とも話すことはなくなる。
でも、話さずにいると忘れていってしまう気がして、こうしてブログに書いてみることにした。
書き残しておけば、後から読み返すことができる。
祖母が亡くなって4年半ほど。
覚えている限りの祖母との生活を、これから少しずつ綴っていこうと思う。
幸せとは
日々の中で「幸せだな」と思うこと。
私はかなり頻繁にあります。
例えば…
とても爽やかでいいお天気で幸せだな、とか
通勤途中で小鳥がきれいな声で鳴いていて幸せだな、とか
散歩途中で色鮮やかな花に出会えて幸せだな、とか
美味しいお酒とおつまみで晩酌できて幸せだな、とかとかとか
もちろん、日々大変なこと、嫌なことはありますが、ちゃんと衣食住を自分で賄えていて、生活できている。
これ以上の幸せなんてあるのかな、と思っています。
そう、私は現状に満足しています。
ただ、現状にとても満足しているということは、さらに良くしていこうという意欲を削ぐ面があることは否めない…と感じることも。
今のままが幸せ、これ以上何もいらない、と思うことは、思考停止とも言える気がして…。
この変化の激しい時代にあって、あまりぼんやりしていると、結局は今ある幸せを失うことになるのかもしれない。
そんな漠然とした不安もあって、色々本を読んでみたり、新しいことに挑戦してみたりしているのですが…
ちっとも続かないのですよね、実際は。
…もちろん、そこには私の「めんどくさがり」な性格が9割方影響しているとは思うけれど。
そういえば、新聞か何かを読んでいて
「すぐに行動できない人は、未来の自分を遠くに感じている」
という言葉に出会って、確かに、と思った覚えがあります。
すぐに行動できない、また、行動が続かないことも、未来を具体的にイメージできない=モチベーションが続かないことが原因かも。
だから、今の幸せがずっと続けばいいと、ただ現状に揺蕩うように生きているのかな。
けれど、そんな甘いものではないですよね、現実は。
現状維持だって、大変。
何もしなければ、下降してしまうはず。
同じ高さを飛ぶにしても、羽ばたいていかなければならない。
よし、また今日から、さぼっていた勉強や朝活、頑張ろう。
未来の自分はイメージできないけど、まずは明日、いつもよりちょっと早起きすることから始めよう。
明日は、明後日は、明々後日は…ていう積み重ねでしかないよね、未来は。
カフェでくつろぐという楽しみ
出掛ける時は、大抵しっかりと予定を立てて、一気に用事なりやりたいことを片付けるのが好きです。
また、仮に隙間時間ができても、ウインドウショッピングや散歩にあててしまって、どこかひとところにじっとしていることは少ないです。
ただ、忌々しい新型コロナウイルスのせいで、最近はちょっとした外出も色々と煩わしいし、しかも容赦ない夏の暑さは行動力を削いできます。
なので、今日はお昼過ぎに美容院に行ったのはいいけど、その後にどこかへ足を延ばすのも面倒になり、かと言って一番暑い時間帯(14時過ぎ…)に帰宅するのもしんどいな…と夕方くらいまで近くのカフェでコーヒーをいただきながらネットや読書を楽しむことにしたのですが。
これが(私にとっては)とても新鮮。
お酒が好きな私は、出先での飲食ってつい飲み屋に入ることが多く、もちろんお酒を飲むので、用事を済ませた一番最後にご飯も兼ねてになるわけで、カフェに寄ることなどめったにないのですよね。
やっていること(ネットサーフィンや読書)は自宅にいる時と同じなのですが…なんか、こう、テンション上がりますね。笑
家に引きこもっていること自体はそんなに苦ではないと思っているのですが、やはりたまには、美味しいコーヒーとおやつを堪能して、おしゃれ感満載なピアノBGMの中で好きなことをする、というのもいいもんですね。
なんとういか、お酒の飲みに行くのは、私にとって「お酒」と「おつまみ」を楽しむためですが、カフェでくつろぐのは「雰囲気」を楽しむことのような気がします。
そう考えると色んなカフェをめぐる人の気持ちが分かるかもしれない。
コロナで色々な楽しみが奪われているけれど、新しい楽しみを見つけたかもしれない…!