カナメの日常

「人生は日常と非日常のバランスが大切」が持論のカナメがなんとなく考えていることの記録。

祖母と私1「覚えていたいから」

私は15歳くらいから十数年、母方の祖父母の家で、母も含めて4人で暮らしていた。

父母が離婚し、母は私を連れて実家に戻ったからだ。

 

実家に戻る、というと大層な感じがするが、元々私たちは母の実家の隣町に住んでいて、頻繁に遊びに行っていたので、当時の感覚としてはずっと祖父母の家にいられるのだ、という程度だったように思う。

 

祖父は私が社会人2年目くらいの頃に亡くなり、その後は女ばかり3人の暮らしになったが、それが9年目に達する頃、祖母も亡くなった。

 

私は小さな頃からおばあちゃん子であったと思うが、一緒に暮らすようになってからも、基本的には祖母に寄り添って生活していた。

 

祖母はガンで胃を3分の2ほど摘出しており、小食ではあったが、少しの食事やおやつを日に何回も食べていたため、私が家にいる日は、チャイを入れて一緒におやつを食べるのが習慣だった。

 

祖母は結構「はいから」な人で、コーヒーや紅茶、洋菓子が好きだったので、自分でもそういうものを用意していたが、祖母自身では入れられないスパイスチャイなどすこし凝ったものを私が用意すると嬉しそうだった。

 

また、関節リウマチを患っており、特に手の関節が変形していたのと、腕があまり上がらなくなっていたので、基本的にお風呂は一緒に入って、頭を洗ってあげたり、湯舟に浸かるのを手伝ったりしていた。

 

今思い返すと、私ってできた孫だったかもしれない、と思うと同時に、祖母に寄り添うことで、私も精神的な安定を得ていたような気がする。

 

誰かの役にたっている、という実感。

 

祖母もことあるごとにお礼を言ってくれたし、時々、親戚や近所の人と話しているところに居合わせると「カナメちゃんがよくしてくれて…」と感謝と共に孫自慢をしているのを聞くこともあった。

 

やっぱり、そういうことがあると嬉しかったし、高校を卒業するまでは、祖母が毎日朝食を用意してくれていたので、その恩返しという意味も込めて、祖母にしてあげられることは、できるだけしよう、と思っていた。

 

今、母と二人、私が買った中古マンションに暮らしていて、それなりに幸せだが、祖母と暮らしていたあの頃が無性に懐かしく思うのは、自分が、何の役にも立っていないと思えてしまうからだろうか。

 

母とも、祖母とのような関係性が築くことができればいいのに、と思わないでもないが、母と祖母がそうだったように、母子というのは関係が近すぎて、逆に難しいのかもしれない。

 

母と祖母との思い出話になることがあるが、たまに、母の祖母に対する複雑な想いが垣間見えることがあり、そういう時、私は悲しくなる。

 

良いことも、悪いことも含めての思い出だと頭ではわかるけれども、聞きたくないと思ってしまう。

 

なので、あまり祖母の話は母とはしない。

祖母と暮らした記憶を持つのはもう私と母だけなので、そうすると誰とも話すことはなくなる。

 

でも、話さずにいると忘れていってしまう気がして、こうしてブログに書いてみることにした。

 

書き残しておけば、後から読み返すことができる。

 

祖母が亡くなって4年半ほど。

覚えている限りの祖母との生活を、これから少しずつ綴っていこうと思う。